興味が持続しないのはなぜ?
何かを始めるときに、自分はこの興味・関心を長く維持し続けられるのだろうか? と考えて不安になることがあります。
例えば、新しい習い事を始めるとき、新しいコミュニティに入ったはいいけれど、その習い事にずっと熱中して、仲間の人たちとも仲良くやっていけるのだろうか? というような不安です。
組織の中に入ってしまえば、少し熱が冷めたってずっと続けられるという人もいれば、熱が冷めて自分の興味がなくなったことに関してはすぐに辞めて次へ進みたい、という人もいると思います。
ただ、こういった個人差は今回考えないことにして、実際にその取り組みを続けてられるか否かではなく、どうして興味の波があるのか、ということを考えてみます。
興味とはなにか?
恋愛に置き換えて考えてみることにしました。
進路選択だったり、自分の行動原理だったりに関わる事柄を考えるとき、恋愛に置き換えて考えるということは、人間という種族の常とう手段のようです。
私も、学生時代を思い出すと「恋愛に置き換えて考えてごらん」とか、「志望校は好きな女の子と一緒だ」といった寒い説明を男性教師から受けてきたな……などと思い出します。(どういうわけか、女性の先生はこういう例えはあまり使わない気がします)
ある女性に興味を持った時、告白してお付き合いを進めるかどうかは、その女性への興味を持続させられるかどうか考えてからにする人が多いのではないでしょうか。
短期的な付き合いで、告白の成功・不成功を知ることが目的のような場合もあるかもしれませんが、それはまさに興味が持続しない例です。
興味が持続する場合、相手の新しい一面を知ったり、相手が自分の知らない一面を教えてくれたり、はじめての場所にデートに行ったり、家庭を持ったりなどのイベントがあったり、という風にどんどんと新しい出来事が起こるように思います。
つまるところ、興味とは新しいものへの目移りであり、それが持続するということは、自分の取り組みによって何か新しいものが生み出され続けるという実感があるという状態のことであるようです。
興味の波とはなにか?
冒頭の疑問に戻ると、興味の波というものは、興味の本質が目移りである以上、絶対に起こりうるものです。
他人から見たときの、「興味が持続しない人だな」、「冷めやすい人だな」といった評価は、興味の移り変わりがある取り組みの中に収まっていないという場合に起こることであると思います。
清楚な女性にアプローチしていたかと思えば、次はギャルを口説いていた、みたいな人は「だれでもいいんかいっ!」といった指摘を受けがちですが、実は内面に優しさがある女性に好意を寄せていた、といった一貫性があったりするものです。(これが良い例えか微妙ですが……)
ある物事に、取り組み続けるためには、自分の力で対象の新しい一面を明らかにし、そのことによって自分の新しい一面も知っていく、という相互作用が不可欠です。
この状態が、よく言われる、「脇目もふらず、熱中している」という状態だということなのでしょう。
横断的な興味
どうしてこんなことを考えたのか、ということに触れて考えを整理していきます。
興味の波、ということは私の好きな小説家、連城三紀彦のことを考えていてふと思ったことでした。
前回の記事で取り上げたのですが、最初は推理小説家としてデビューした小説家さんですが、恋愛などのテーマに推理小説的な技法を持ち込んで融合させた人です。
この人のことを考えてみると、興味が推理小説から恋愛小説に移った? という分析ができるかもしれないと思ったのです。
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ただ、精巧に積み上げられた伏線や人物の持つ深みは、熱中していなくては作り上げられない完成度ではないか、と思ったのです。
それで、作者は熱中していて、興味は移り変わっていはいないのだけれど、凡人が見るときには『推理小説』とか『恋愛小説』といった概念しか持ち合わせていないから、そんな風に考えたのだと思い当たったのです。
つくづく、私は凡人であります。。。
まとめ
興味を持続させるには、努力することによって新しいことを知っていく以外に方法がないようです。
努力によって知識が増えてくれば、新しいことに出会う確率も上がりますし、好循環に入ることができそうです。
努力の根源は、やはり好奇心です!